イチゴテックの宮崎って何者なの?」と疑問に思っていませんか?

  • 宮崎大輔ってどんな人間?
  • なぜ、宮崎はイチゴに詳しいの?
  • なぜ、宮崎は社長をしているの?
  • 宮崎の経歴は?
  • 宮崎はどんなスキルを持っているの?
  • 宮崎はどんな性格なの?

このような疑問をお持ちの方は、ぜひ最後までお読みください。

このページを最後まで読めば、あなたは宮崎大輔のすべてを理解できます。

好きな物

項目好きな物
好きなガンダム機動戦士ガンダム00 ファースト・シーズン
好きなビールサントリー生、よなよなエール
好きなお酒ワイン、ビール、ハイボール、日本酒
好きなK-POPNiziU、LE SSERAFIM、ILLIT
好きなスポーツサッカー、テニス、陸上、駅伝
好きな寿司ネタとり貝、イカ、煮穴子
好きな焼き肉ネタハラミ、牛タン、ホルモン
好きな経営者DMMグループの亀山会長
好きな映画インセプション、君の名は。
好きなカメラメーカーFUJIFILM
好きな野菜ナス
好きなケーキモンブラン
好きな将棋の戦法四間飛車

ビジネス書を読むのが好きで、ビジネス書を1,500冊以上、読みました。

漫画を読むのが好きで、300種類以上・3,800冊以上、読みました。

ワインが好きで、7カ国でワイナリー巡りをしました(フランスのボルドーとブルゴーニュ、チェコ、チリ、アルゼンチン、ニュージーランド、南アフリカ、日本)。

海外に興味があり、40カ国以上を巡りました。

飛行機に乗るのが好きだった時期があり、一年で50回以上乗りました。

数字やデータ化が好きで、読んだ本などのいろんな数字の記録をつけています。

仮説検証を繰り返すのが好きです。

苦手なこと

  • 車の運転
  • 酔っ払いの相手
  • 腰を曲げること、重たい荷物を持ち上げること(椎間板ヘルニアのため)
  • 英語のRとLの聞き取り
  • 歌を歌うこと
  • 大人数の人と会うこと
  • 出張前日の熟睡
  • 掃除
  • 辛い食べ物
  • 飛行機に乗ること

長野県で生まれ育った幼少期

まずは幼少期から紹介します。

ちなみに、先祖は「宮崎太郎長康の末裔」と言い伝えられています。

宮崎太郎長康は平安末期の越中国(富山県東部)を拠点とした武将で、越中の「宮崎城」の城主です。

木曽義仲に従軍した一人です。

木曽義仲が滅亡した後に、長野県飯田市付近に逃げてきて、その辺りを治めていたとされています。

昭和最後の年に誕生

1988年に長野県飯田市で生まれました。

1988年の世代は、昭和天皇が1989年1月に崩御したので、「昭和63年、昭和64年、平成元年」の3つの年号がある珍しい世代です。

時代が「昭和」から「平成」に変わるときに誕生し、平成の時代で育ちました。

兄と姉がいる三人兄姉です。

父方の祖父母は「果樹農家」、母方の祖父母は「野菜農家」という農業サラブレッドです。

飯田市は人口が9万人くらいの小さな町です。

長野県南部に位置にしていて、名古屋まで高速で2時間ほどの距離にあります。

観光名所はなく、著名人もいませんが、「人口1万人あたりの焼肉屋の軒数が日本一多い」ことで町おこしをしています。

建設中のリニアモーターカーの長野県駅が飯田市にできる予定です(2034年以降)。

植物を育てることに興味を持つ

保育園に通っている3歳から5歳頃は、実家の果樹園で遊んでいました。

果樹の剪定で切り落とした剪定枝と、誘引用の紐で弓矢を作るのが好きでした。

小学生低学年では玉ねぎを土に植えると長ネギのような物が生えてくることに興味を持ち、玉ねぎをたくさん植えました。

その長ネギのような物を料理して家族に振る舞うと、喜んでもらえて嬉しかった記憶が残っています。

小学生高学年では自分で管理する野菜畑がほしくなり、祖父に直談判して果樹園の一部を野菜畑に変え、自分で野菜を育てていました。

聖火ランナーにくじ引きで選ばれる強運

10歳の頃に地元の長野県で「長野オリンピック」が開催され、聖火ランナーに選ばれて走りました。

聖火ランナーで選ばれた理由は、くじ引きで選ばれたからです。

「強運の持ち主」でした。

剣道で全国大会に2回出場

兄の影響で剣道をしていて、全国大会に2回出場しました。

普通の小学生は週に1回の練習頻度ですが、私は2つの道場を掛け持ちして週に3回の猛練習をして強くなりました。

しかし、あまりにも練習が過酷すぎたことと(左手が腱鞘炎で竹刀が持てなくなる&練習が厳しくて毎回号泣する)、進学した中学校には剣道部がなかったことから、中学1年生で剣道は辞めました。

この経験から「猛練習すれば結果が出る」や「精神的に辛ければ逃げた方が良い」ことを学びます。

中学校では陸上部で長距離種目

中学校には剣道部がなかったので、陸上部に入りました。

本当に入りたかったのはサッカー部ですが、同じ中学校に進学する小学校にはサッカークラブがあり、レベルが高かったので諦めました。

このときにサッカーを諦めたことを後悔して、大学生になってからサッカー部と社会人フットサルチームに入ることになります。

この経験から「やらない後悔よりやった後悔の方が良い」ことを学びます。

陸上部では長距離種目を選択し、3,000m走と駅伝選手をしていました。

しかし、小学5年生のときに発症した「小児喘息」の影響もあり、記録は伸び悩みました(小学校4年生までは水泳を習っていたおかげで発症しなかった)。

陸上競技は努力も大切ですが、「才能」の影響が大きい競技です。

中学2年生の長野県市町村駅伝では飯田市代表として走りましたが、全チームの下から5番目くらいの大ブレーキをかけてしまいました。

チームの足を引っ張る結果になり、飯田市代表が史上最低順位になり、悔し涙を流します。

その悔しさをバネに練習に取り組み、中学3年生の長野県市町村駅伝では、全チームの上から8番目の好成績を残せました。

高校では硬式テニス部

高校は兄や姉と同じ飯田風越高校に進学します。

高校受験の受験勉強をするのが嫌だったので、高校の進学レベルを落として、この年から始まった「推薦入試」で進学します。

おかげで受験勉強をせずに済みました。

「ハックして楽すること」を選ぶ中学生でした。

高校では高校1年から高校2年まで硬式テニス部で、テニスに全力で取り組みます。

朝練や昼練、夕練、夜練も行い、テニス未経験の状態から団体戦のダブルス要員で県大会出場を果たします。

しかし、高校3年の三者面談で「このままの成績だと国公立大学には進学できない」と告げられ、部活を辞めることを決意し、高校3年の春から受験勉強を始めます。

部活を辞めた理由は、顧問の先生と反りが合わなかったことも関係しています。

目上の人で合っても、自分が認めた人間の言う事しか聞きたくない、反骨心が強い人間です。

大学受験で農学部を選択

実家が裕福ではなく(実家は汲み取り式トイレ&薪で風呂を沸かしていた)、兄と姉の大学進学と時期が重なったこともあり、両親から「私立大学は無理。奨学金制度を使っても国公立大学しか進学させてあげられない」と伝えられていました。

私が通っていた飯田風越高校は、国公立大学に受験で進学できる生徒が年に3〜7名ほどしかいない、偏差値が低い非進学校でした。

そのため、部活を他の人よりも半年ほど早く辞めて、受験勉強に集中します。

受験勉強といっても、塾や予備校には一度も通わず、教科書と参考書を頼りに独学で自宅で勉強するだけでした。

受験する学部は、「生物」が最も好きな科目で、実家が農家が農業に興味があったことから、「農学部」を選びます。

センター試験では、農学部の受験科目の合計で70%の点数が取れ(理系科目+文系科目)、地元の長野県の国公立大学である「信州大学」を受験し合格しました。

無事に国公立大学に合格でき、奨学金制度を使い、大学に進学することができました。

後から気がついたことですが、私は文系科目が得意で文系科目だけであれば85%の点数が取れていました。

「なぜ、文系学部を受験しなかったんだ!?」と後から高校の先生に指摘されて、自分の受験の知識の無さや塾や予備校に通わなかったデメリットに気が付きました。

自分に向いた受験戦略を理解していなかったのです(私立文系にはお金がなく進学できませんでしたが)。

この経験から「独学よりも、お金を払って詳しい人に教えてもらった方が良い」と学びました。

また、この自分の失敗から、「子どもの教育機会を無駄にしたくない。子どもの可能性は最大限引き出せる親になりたい」と考えるようになります。

大学生時代

信州大学はキャンパスが長野県各地に散らばるタコ足キャンパスです。

1年生のときは松本市に住み、2年生からは南箕輪村に住みました。

大学1年生で辛いことが起きる

高校は非進学校だったので、センター試験の結果は校内でトップクラスでした。

しかし、信州大学に入学してみると、進学校で受験に失敗して泣く泣く信州大学に入学した人が多いことに気が付きます。

高校までは長野県飯田市から外に出たことがなかったので、世間の広さを学びました。

大学1年生の春に辛いことが起きて、人生の中で最も精神的に落ち込みました。

この出来事がキッカケで、私は一度生まれ変わっています。

大学1年生までの私と、その後の私は別人です。

このことから「人は変わることができる」が、それはとても辛く厳しいことだと学びます。

アルバイト経験

大学生時代のアルバイトでは、携帯電話の販売(ガラケー)、イベントスタッフ(チケットのモギリなど)、寿司屋などをしました。

特に寿司屋では大学2年から修士2年までの5年間、働きました。

その経験を生かして「調理師免許」も取りました。

寿司屋の親方からは「高い時給を受け取っているのだから、言われた仕事をするだけではダメだ。気を利かせて言われる前から準備をしたり、素早く仕事をして2倍の作業量をこなせ」と言われて、仕事の厳しさを学びました。

研究は四季なり性イチゴの夏秋栽培

大学3年生から蔬菜花卉園芸学研究室に入りました。

卒論の研究テーマは、「四季なり性イチゴの夏秋栽培」です。

朝5時から夜22時頃まで、イチゴの栽培管理やデータ取得、参考になる論文を読む、ゼミの準備などをしていました。

また、イチゴの品種改良の作業も同時に行っていました。

このときにイチゴのヘタを見るだけで品種を当てられたことから「いちごソムリエ」というあだ名をつけられます。

その後、テレビ番組などで「いちごソムリエ」として紹介されることになります。

サークルは農学サッカーと社会人フットサル

サークルは硬式テニスや軽音楽などもしましたが、一番力を入れたのは農学サッカー部と社会人フットサルチームです。

中学時代にビビってサッカー部に入らなかったことを後悔していたので、大学からサッカーを始めました。

そして、日系ブラジル人も多い社会人フットサルチームにも所属して、フットサルもしていました。

後に、日系ブラジル人と結婚することになるとは、このときは夢にも思いませんでした。

社長にインタビュー

大学3年のときに就活を始めましたが、自己分析を進めた結果、就活をやめて「30歳までに起業する!」と決意しました。

そして、出版社が主催する「長野県の企業の社長にインタビューしてフリーペーパーを作る」という企画に参加します。

長野県のいろんな企業の社長に「私は将来、起業したいのですが、何をしたら良いですか?」と質問して回りました。

「小さくても良いから、自分で商売をしてみなさい」というアドバイスを受けて、大学院のときに実践することになります。

学生団体でイベントを開催

大学4年生のときに「学生団体」という、学生が行うNPOのようなことを友人二人と三人で始めます。

最終的に「全国農業系交流会」という全国の農学部生を集めたイベントを長野県で開催します。

30名ほどは集まりましたが、目標の100名には届かず、挫折を味わいます。

また、このときの集客に各大学のサークルが運営するブログのコメント欄や日本で流行り始めていたFacebookを活用します。

そして、「Facebookってすごい!これからはブログやSNSの時代が来る!」と感じ、自分で独自ドメインを取り、サーバーをレンタルして、WordPressで個人ブログを立ち上げて運営を始めます。

その後、Twitter(現在のX)やYouTube、InstagramなどのSNSも運営を始めます。

私がウェブサイトやSNSに詳しくなったのは、学生時代のイベントの集客失敗がキッカケでした。

ヒッチハイクで九州一周旅行中に東日本大震災が発生

ひょんなことから、大学卒業旅行として、一人でヒッチハイクで九州を一周することになりました。

本当にヒッチハイクで九州を一周したのですが、その旅の最中に長崎県川棚町にある「超能力喫茶店」に立ち寄ったら、その超能力ショーの最中に東日本大震災が発生しました。

ゲストハウスという外国人旅行者やバックパッカーが宿泊する相部屋制の宿泊施設に宿泊していると、そこで働く同い年の女性が青年海外協力隊志望者でした。

「青年海外協力隊という制度があるのか!」と知った瞬間でした。

当時の私は「地域おこし協力隊」という制度に興味があり、大学卒業後や大学院卒業後の進路として考えていました。

その地域おこし協力隊の途上国バージョンが、青年海外協力隊です。

東日本大震災のボランティアに2回参加

2011年3月11日に東日本大震災が起きました。

春休みだったこともあり、3月下旬に友人と二人で宮城県岩沼市と石巻市へ災害ボランティアに行きました。

一週間ほど車中泊しながら、泥かきなどの作業をしました。

そして、4月の下旬から5月の上旬にかけて、今度は一人で福島県南相馬市に災害ボランティアに行きました。

ここでも一週間ほど車中泊しながら、被災した家の庭の片付けなどの作業をしました。

このときに被災者やボランティアの受け入れ組織、ボランティアの関係を見ていて「ボランティア」の難しさも痛感しました。

大学院の修士課程

大学院はそのまま信州大学の大学院に進学しました。

修士課程の2年間を過ごしました。

年齢でいうと、23歳から24歳の期間です。

研究は四季成り性イチゴの周年生産

修士論文のテーマは「四季なり性イチゴの周年生産」です。

四季なり性イチゴを使って、夏から秋だけではなく、冬から春にも収穫をするという試験です。

一年中、イチゴをいろんな条件で比較して育てて、いろんなデータを取りました。

東北や山梨県、長野県のイチゴ農家を巡って課題を教えてもらい、それを大学で研究して課題解決策をマニュアル化して普及をしました。

3万株ほどの苗の育苗やウイルスフリー苗作りもしました。

イチゴの促成栽培やウイルスフリーの作り方については、岡山大学農学部の吉田先生に教えてもらいに行きました。

サークルやアルバイトは参加頻度を減らして、研究に一番時間を費やしました。

リンゴジュースをプロデュース

長野県の社長から「自分で商売をしてみろ」と言われたので、自分で商売をしてみることにしました。

母親が「リンゴジュースを作っても直売所で売れない」と困っていたので、リンゴジュースをすべて買い取り、私がプロデュースをして販売することにしました。

後に、これが「マーケティング」や「ブランディング」、「商品開発」だと知ります。

プロのデザイナーの方に頼んでボトルに貼るラベルと、手ぬぐいを作りました。

手ぬぐいはリンゴジュースを飲んだ後も商品を思い出してもらうため、ボトルを手ぬぐいで包んでギフト用として販売するため、手ぬぐいでリンゴジュースの特徴を伝えるためです。

今になって思い返してみても、商売経験がない大学院生の割には良い商品開発だったと思います(今ならもっとうまくできますが)。

リンゴジュースはECサイトや東京のヒルズマルシェで販売して、無事に完売しました。

助教の先生やポスドク、博士課程の人と飲み会

大学4年生の頃から、助教の先生、ポスドク、博士課程の人などの20代後半から30代前半の若手の研究者と集まって飲み会を頻繁に行っていました。

博士課程を経験した人やその最中の方の話から、研究の大変さを感じて、博士課程への進学はしないことにしました。

そのメンバーの中には、東アフリカで長く農業の調査をしていた方がいて、興味深い話をたくさん話してくれました。

後に、私も東アフリカに駐在したり、出張で訪問することになります。

進路は迷って青年海外協力隊

大学院卒業後の進路は、かなり迷いましたが、青年海外協力隊にしました。

他の候補は、農業系の会社に就職する、地域おこし協力隊に参加する、実家の農園で働くことです。

理由は、一番厳しい進路であること、途上国に行ってみたいこと、社会に貢献したいこと、多くの人が経験しないことを経験したいことです。

青年海外協力隊との初めての出会いは、九州をヒッチハイクして東日本大震災が起きた日のゲストハウスのスタッフの方でした。

そして、大学院で若手の研究者の方からアフリカの話も伺い、興味が高まっていきました。

大学生のときに海外留学する人もいますが、金銭的にも留学の知識的にも、私にはそんなことは考えることはできませんでした。

青年海外協力隊であれば、自己負担金はなしで途上国で実務経験を積めて、給料のようなお金も受け取れます。

卒業旅行はインドに一人旅

大学院の卒業旅行は、インドに一人旅しました。

青年海外協力隊でパナマ共和国に行くことが決まっていましたが、最もヤバい国インドに行けば良い経験になると思ったからです。

ニューデリーからコルカタまで電車で移動し一日ほど到着が遅れたり、バラナシのガンジス河で沐浴して体調を崩して寝込んだり、治安が悪い街の駅で野宿したり、インド人に騙されたり、いろんなハプニングが起きました。

ちなみに、この数年後に再びインドを旅行することになります。

青年海外協力隊

青年海外協力隊は野菜栽培隊員として、中米にあるパナマ共和国に派遣されました。

期間は2年間。

日本でいう「農業普及員」のような仕事をしました。

日本の農業普及員の仕事を休職して参加している人も多いです。

年齢でいうと、25歳から26歳の期間です。

1年目は生活するだけで大変

パナマは公用語がスペイン語なので、日本の駒ヶ根訓練所で2ヶ月間、スペイン語の訓練を受けてから派遣されました。

それでも身についたのは、ゆっくり話す挨拶程度。

パナマでは最初の半年くらいは、聞き取りもできず、言いたいことも伝えられず、生活するだけで大変でした。

例えば、スーパーで欲しいものが買えない、ファストフード店で店員さんが注文を聞いてくれないなど。

ストレスが強く、精神的な病気になってしまう人や円形脱毛症になる隊員も多いです。

幸い私は、25〜26歳という若い柔軟性と体力、そして、飲酒やサッカー、サーフィンなどのストレス発散方法によって、精神を壊すことはありませんでした。

生活するのは、パナマ人のホストファミリーが暮らす家にホームステイです。

ホームステイなので自宅でも気が休まることはありません。

今、思い返してみても、本当に大変でした。

1年ほど住むとスペイン語が話せるようになり、パナマ人の特徴を理解でき、生活を楽しめるようになりました。

派遣されたプロジェクト

派遣されたプロジェクトは、教育省、保健省、農業省、そしてJICAが関わるプロジェクトでした。

青年海外協力隊員も、野菜栽培隊員の他にも栄養士やコミュニティ開発などの隊員が、合計で6名もグループ派遣されていました。

プロジェクトの目標は「無電化集落に学校菜園を普及させること」。

電気も水道もない集落では、トウモロコシやイモ、コメは採れますが、野菜の摂取量が不足していました。

そこで、学校菜園で野菜を育てて野菜の摂取量を増やすことを目指したのです。

ちなみに、これは青年海外協力隊あるあるなのですが、結局このプロジェクトは私の任期の最中に突然、終了します。

私は個人的なプロジェクトもしていましたし、農業普及員のような仕事もしていたのでそのまま仕事を継続しましたが、わざわざ地域を変えて別のプロジェクトに異動になる隊員もいました。

無電化集落に泊まり込み

私はまずは地域を知り、信頼関係を築くために、泊まり込みをすることにします。

月曜日に半日ほど山を登り無電化集落にたどり着きます。

その時点で熱中症にかかっているので、半日ほど寝込みます。

泥と藁でできた家に泊めてもらい、農作業を一緒にしたり、食事を一緒に取って過ごします。

住民の宗教はカトリックやプロテスタントなので、一緒にミサなどの行事にも参加します。

そして、金曜日になったら半日ほど山を下って家に帰るという生活を、1年半ほどしました。

この間に、プロジェクトとは別に個人的なプロジェクトも立ち上げて、家庭菜園の普及活動や衛生改善活動をしました。

マーケティング調査団に参加

世界銀行の小辻さんが中心となり、「青年海外協力隊マーケティング調査団」が設立されました。

マーケティング調査団とは、マーケティングなどのビジネススキルを生かして、青年海外協力隊の活動の改善を目指す組織です。

アフリカを中心に発足され、中米にいた私はオンラインで参加しました。

海外の大学でMBAを取得し、世界銀行などの世界トップクラスの組織や企業に務める方がメンターになり、協力隊員の活動やプレゼンにアドバイスをしてくれます。

私はこのときに、マーケティングやブランディング、事業戦略、経営戦略などを知り、マーケティング調査団の活動や本などを通してビジネススキルを学びました。

後に、自社の経営戦略や経営コンサルタントとしての業務に役立っています。

カメラにハマる

せっかくパナマに2年住むなら良い写真を撮りたいと思い、一眼レフカメラ(Nikon)を買いました。

そして、カメラにハマっていきます。

撮影した写真はブログやSNSに投稿したり、パナマ人や隊員仲間にプレゼントしました。

後に、このカメラ機材や撮影や編集の知識を生かして、YouTuberになります。

任期終了後の進路で悩む

青年海外協力隊は「2年」という任期が決まっています。

2年経ったら、日本に帰って別の仕事を探さないといけません(休職して参加する人もいます)。

任期終了後の進路は、パナマの旅行会社で働く、コロンビアのラーメン屋で働く、日本のホステルに就職する、などの候補で悩んでいました。

青年海外協力隊に参加する前は、「国際協力の道に行くのも良いかも。農業分野の国際協力の専門家も良いかも」と思っていましたが、その考えは変わりました。

私にとっては、国際協力は自分の人生をかけて取り組むべきものではないと感じたからです。

個人事業主

青年海外協力隊の任期が終わり、日本に帰国しました。

JICAから就職準備金という名目で「200万円」をもらえました。

進路に悩みましたが、結局この200万円を元手にして、個人事業主として事業を始めることにしました。

年齢でいうと、27歳から30歳までの期間です。

南米でNPO活動

中米で青年海外協力隊をしていたこともあり、南米でNPO活動をしました。

日系企業から活動資金を出してもらい、南米のベネズエラで少数民族に野菜栽培を教えました。

クラウドファンディングで募金を集めて、南米のボリビアのウユニ塩湖でバイオトイレを建設しました。

資金調達や収益化の面で、ボランティアやNPO活動の難しさを感じました。

「収益により継続性があるビジネスの方が良い」と感じるようになりました。

海外農業コンサルタント

青年海外協力隊の任期中から、ブログやSNSを通じて仕事の依頼が来ていました。

一つはベトナムのイチゴ栽培、もう一つはケニアのイチゴとミニトマト栽培の仕事です。

それらの仕事を引き受けることにしました。

ケニアの仕事では、ケニアに半年ほど駐在したり、3週間ほどの出張を4回ほど行い、「開発コンサルティング会社(途上国ビジネスが専門のコンサルティング企業)」の農業専門スタッフとして、仕事をしました。

開発コンサルタントの方の業務を横目で見て、「開発コンサルタントの仕事術」を学びました。

正社員として勤務した経験はありませんが、業務委託契約で複数の企業で仕事をして、ビジネススキルやビジネスマナーを学んできました。

これ以外にも東アフリカや東南アジア、南米の農業関係の仕事をいろいろ経験しました。

ウェブマーケティング

ブログやSNS運営を学生時代からしていたので、それを継続しました。

複数のウェブサイトを立ち上げて運営し、他社のSEOやウェブマーケティングのコンサルティングも始めました。

仕事はすべてリモートワークでしていました。

IT系企業の業務委託スタッフ

ウェブマーケティング企業やIT系のスタートアップ企業の業務委託スタッフとして、リモートワークをしました。

コンテンツ制作を担当したり、資金調達のための事業計画制作などを担当しました。

ここでIT業界やスタートアップ型の起業を学びました。

カメラマン

カメラにハマっていたこともあり、カメラマンとしての仕事も始めました。

カメラ機材をNikonからFUJIFILMに移行しました。

しかし、カメラマンというビジネスモデルは将来性がなく、私には合っていないと感じ、仕事としての写真撮影は辞めました。

YouTuber

海外渡航の経験や農業の知識、そしてカメラの機材や知識を生かして、YouTuberとしても活動を始めました。

最初は海外旅行やスペイン語などの動画を投稿しましたが、2017年12月からは農業系の動画を投稿しました。

他人の役に立つ仕事に集中

個人事業主時代はいろんな事業や業務に挑戦しました。

その結果、「他人の役に立つ仕事に集中しよう」と考えるようになります。

自分の好きなことよりも、世の中のニーズや求められる仕事、得意なことを優先させることにしました。

40カ国以上を渡航

海外出張のついでに周辺国を旅行して、これまでに40カ国以上を渡航しました。

一年間で飛行機に50回以上、乗った年もあります。

ケニアのマサイ族の集落に一週間、泊まり込んだこともあります。

ベネズエラのペモン族の集落に一ヶ月間、泊まり込んだこともあります。

スペイン語をマスターしたおかげで、英語も農業の仕事ならできるくらい喋れるようになりました。

アジア、ヨーロッパ、北米、中米、南米、オセアニア、アフリカなどいろんな地域を自分の目で見て回りました。

おかげで、世界のニュースの理解度や、今後の日本の将来予測に役立っていると感じます。

法人化し株式会社イチゴテックを設立

個人事業主としての業務が軌道に乗り、起業の目標にしていた「30歳」になったこともあり、法人化しました。

個人事業主も立派な起業だと思いますが、せっかくなので株式会社を設立することにします。

2019年に株式会社イチゴテックを設立しました。

資本金は300万円で、100%私が出資しました。

個人事業主として稼いだお金です。

年齢は「30歳〜現在」の期間です。

1年目にコロナショックで倒産危機

株式会社を設立した1年目に、世界中でコロナショックが起きました。

予定していた海外農業コンサルタントの仕事がほとんどすべてなくなり、会社設立1年目にして、いきなり倒産危機に陥りました。

世の中の多くの人や会社がコロナ禍で困ったと思いますが、弊社もコロナ禍で危機でした。

YouTubeでリボベジブーム

海外農業コンサルタントの仕事がコロナショックでほとんどなくなったので、暇になりました。

コロナショックで「3密回避」で、「不要不急の外出は禁止」の世の中です。

そこで、「これは家庭菜園ブームが来る!しかもリボベジが流行る!」と考えて、YouTubeに家庭菜園やリボベジ関係の動画を毎日投稿しました。

そのおかげで、YouTubeのチャンネル登録者数が急増し、YouTube公式からもおすすめされたり、露出が増えました。

YouTubeの広告収入も大きくなり、倒産危機をなんとか回避できました!

そして、後にこのときの動画を活用して、リボベジの本「おうち野菜づくり」をKADOKAWA社から出版します。

その後も子育てによりペースは落ちましたが、月に数本の動画を公開しています。

そして、家の光協会さんからプランターでのイチゴ栽培に特化した本「プランターでかんたんイチゴづくり」を出版しました。

農業コンサルティング事業の方針転換

コロナ禍までは、主に日本企業の海外進出を支援するコンサルティング業務をしていました。

「日本のイチゴ品種や養液栽培で海外で勝負しよう!」というビジネスです。

しかし、コロナ禍でそれらの業務がなくなったので、次に日本国内に目を向けることにしました。

現在は、主に日本国内でイチゴ農園を立ち上げる企業や経営難の農園の経営改善のコンサルティング業務をしています。

コロナ禍が落ち着いてからは、海外進出の仕事もたまにしています。

「イチゴで稼ぐ!」というイチゴビジネスの本の一部も執筆させて頂きました。

完全閉鎖型植物工場のコンサルティング

完全閉鎖型の植物工場のコンサルティングも始めました。

植物工場の新規開業や、栽培・経営がうまくいっていない植物工場のコンサルティングです。

これまでに7軒の施設を支援しています。

どの施設でもイチゴを生産していますが、イチゴだけではなくレタス類など30種類以上の野菜を栽培してきました。

CMO養成講座で体系的に学ぶ

CMOとは、「Chief Marketing Officer(最高マーケティング責任者)」の略で、企業のマーケティング全般の最高責任者を指す言葉です。

企業のマーケティングの責任者ですね。

そのポジションになることを目標にした、オンライン講座を履修しました。

この講座でマーケティングを体系的に学ぶことができたので、事業に活かしています。

その他の事業とスタッフ

YouTube事業やコンサルティング事業以外にも、実はこっそりといろいろな事業に挑戦しています。

失敗して撤退する事業も多いですが、いろんな経験を積めています。

弊社は正社員は雇用していませんが、業務委託契約という形で、いろんなスキルをもったスタッフに働いてもらっています。

これは、私自身が一度も正社員として雇用されたことがなく、業務委託契約でいろんな会社で働いた経験があるからです。

そのため、「正社員になるのも良いけど、起業しよ!」という考えがあります。

弊社と業務委託契約で仕事を数年した後に、副業から個人事業主として独立したり、個人事業主から法人化をしたスタッフが3名以上います。

「起業したい人を応援する」を目指しています。

結婚し子育て

日系ブラジル人の女性と結婚し、子どもが生まれました。

妻の実家は「花卉農家」なので、さらにサラブレッド化が進みました(私の父方は果樹農家、母方は野菜農家)。

義理の兄はブラジルで、「農業コンサルタント」として働いています。

ブラジルに行ったり、ブラジルから妻の家族が来たりしています。

私がブラジルに行ったときには、義理の兄がイチゴ農園などに視察に連れて行ってくれます。

ポルトガル語とスペイン語は似ていますが、わからない言葉も多いです。

子育てを楽しんでいます。

子どもの教育機会や可能性については、最大限発揮できる環境を整えたいです。

今後の展望

今後、やりたいことなどを紹介します。

2015年から個人事業主としてビジネスを始めたので、起業してから10年ほど経ちました。

農業の行く末は

日本の農業の今後を予測していますが、政治や経済、地球温暖化などいろんな影響があり、予測が難しいです。

2024年から2025年にかけては、コメ不足が発生しコメの価格が高騰しました。

その結果、備蓄米が放出され、アメリカからカリフォルニア米が輸入され、JAが批判され、農林水産大臣が交代しました。

「日本の農業の問題は、農業だけの話ではなく、一般消費者の収入や生活、政治なども強く影響する」と実感しました。

日本の農業、海外の農業、イチゴビジネスなど、動向を見守っています。

YouTubeやSNSの影響力

YouTubeやInstagram、TikTokなどのSNSは形は変わるでしょうが、影響力は今後もあるでしょう。

世界中の大統領や著名人、芸能人、企業もSNSを積極的に使っています。

ウェブマーケティングは得意なので今後も継続する予定です。

AIやロボットの活用で農業DX推進

AIやロボットの進歩が著しいですね。

ドラえもんやSF映画のような世界に少しずつ変わっていくでしょう。

そして今後、益々進歩のスピードが早くなっていくでしょう。

AIやロボットをドンドン活用して、農業DXを推進していきたいです。

まだロボットは使っていませんが、AIは毎日使っています。

スタートアップ型の起業をしたい

元々、スタートアップ型の起業をしたかったので、どこかのタイミングでスタートアップ型の起業をするかもしれません。

VCから資金調達をして、成功確率が低いがリターンが大きい事業を始めるかもしれません。

それは農業分野かもしれませんし、IT分野かもしれません。

AIを日常的に使うようになったので、「農業×AI」かもしれません。

大学院で博士号を取りたい

研究も好きなので、どこかのタイミングで博士号を取りたいと思っています。

博士号を持っている方に相談して、論文博士という方法も検討しています。

腰痛を治したい

28歳くらいのときに実家の棚田で斜面を刈払機で草刈りをしたら、椎間板ヘルニアになりました。

それから10年ほど、腰痛で悩まされています。

腰痛を治したいです。

父方と母方の農園の農地問題

父方の果樹農家と母方の野菜農家の農地を、今後どうするかという問題があります。

場所は離れていますが、どちらも長野県の山間部にある傾斜地の小さく分散した畑です。

大型の農業機械や車両は入れず、作業は手作業で行わないといけません。

周辺の農地は「耕作放棄地」や「太陽光発電施設」に少しずつ変わっています。

祖父母などの高齢者の世代には「先祖代々の農地を守るべし!」という価値観があります。

私にはそのような価値観はありませんが、農地が耕作放棄地や太陽光発電施設に変われば、水害や獣害がひどくなります。

かといって、生産効率が低い山間部の傾斜地の農地では、農業をしても生活費も稼げません。

とりあえずは、両親が農地を維持してくれていますが、問題を先送りしているだけという状況です。

同じような問題が、全国で起きています。

まとめ

出来事私が学んだこと
幼少期野菜を育てるのは楽しい
小学校のオリンピックの聖火ランナー強運を持っている
小学校の剣道で全国大会2回他人の数倍、努力すれば良い結果が出るが、辛くてメンタルが病む
中学時代の陸上部で長距離走ほどほどの努力では才能には勝てない
高校時代のテニス部他人の数倍、努力すれば良い結果が出るが、物事には優先順位がある
大学受験知見がある人にお金を払って教えてもらった方が良い
大学生時代人間は変われるが、とても辛く難しい
大学院時代商売のことを学ぶには商売をするのが良い
東日本大震災のボランティアボランティアは難しい
青年海外協力隊国際協力は人生をかける物ではない
マーケティング調査団マーケティングなどのビジネススキルは役立つ
南米でNPO活動NPO活動では収益化が難しく継続性がない
個人事業主いろんな事業に挑戦したが、他人の役に立つことに集中しよう
法人化以降コロナショックのような大きなリスクに備えておくべき
子育て子どもはかわいい
二箇所の農地を持て余す全国の耕作放棄地問題は深刻